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フラットなコミュニケーション能力~次世代リーダー像~ [ニュースコメント]

 中央公論九月号で御厨貴と牧原出が”「強いリーダー待望論”像の不毛」と題して対談を行っている。復興会議の議長代理を務めた御厨の回顧が興味深い。会議は「政治主導」どころか「非政治」だったという。菅総理は時折顔を出すがメモを取るだけで一人の委員が「総理の考えをお聞かせください」と言ったら「私はこの会議ではしゃべらないことになっている」と一言。みんな驚き、呆れ、しかしそうかと納得したそうだ。政治が何もせずに丸投げ状態だったのに反して、明るく元気だったのが官僚で、情報提供や方針の具体化に奮闘してくれたという。菅内閣、そして民主党の標榜する「政治主導」の実態が伺える。

 御厨の指摘でもう一つ興味深かったのが検討部会の議論の進め方だった。メンバー同士がML(メーリングリスト)を作り、情報の共有化と相互助言と相互批判を行いつつ、実際の会議ではより高次のレベルの議論を行う。一方現場主義も徹底しており、被災地にもよく足を運んだという。御厨はこうしたフラットなコミュニケーション能力を備え、MLを回せる世代が新しいリーダー像を作るのではとして指摘する。

 MLは企業の様々なプロジェクトで情報の共有化を図るためのツールとして必須となっている。おそらく官僚の世界でも多用されているだろう。政治や学者の世界ではMLは使われていないのだろうか?それだけでフラットなコミュニケーションまで論じてしまうのは論理の飛躍かもしれない。しかし筆者は感覚的に御厨に同意する。フェイスブックを使用している友人が「社長や専務とフェイスブックで”友達”になった」と話してくれた。彼はフェイスブックでは会社の話をするのではなく、趣味のジョギングや料理の話を彼らとするという。また会社以外の社会活動もフェイスブックを使って盛んに行っており、NPOで震災支援も行っている。彼にとって会社は自分の属性の一部分でしかなく、上司や会社の経営幹部も属性の中の関係性の一つにしか過ぎない。(まあ彼は幸福な企業にいるからこそ成り立っているわけであるが)

 こういうことを考えるとSNSなどを通して社会のフラット化は進んでおり、その中でフラットなコミュニケーション能力を持つ者がこれからのがリーダーの一資質となるのは必定のようである。しかしその先には言いようのない危うさも内包してるように筆者は思える。そうした危うさを覚悟しつつ我々は一歩前に進まねばならないのだろうか。フラット化はいいかえれば薄っぺらで希薄した関係性となるかもしれぬ。未来はわからない。憂鬱さを感じながら前に進むのが我々日本人のこれからの態度なのかも。 

 

 


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