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目的の為には手段を選ばない←許容されない時代 〜朝日虚報〜 2014年9月27日 [政治]

 昨日の「朝まで生テレビ」は朝日新聞虚報問題。朝日からは早野透、下村満子両OB。冒頭から議論がループしなかなか前に進まない。池田信夫氏は「強制連行の植村記事をねつ造だ、朝日は認めるべきだ」と詰めより、長谷川幸洋東京新聞論説副主幹は「吉田証言で朝日は16度の記事を書いたが証言を虚言と知りつつ書き続けたのか」と問いただす.。「強制連行はねつ造」との指摘に早坂氏は「浅慮があった」といいはっきり認めない。下村氏は「だからといって慰安婦の存在はないとしてはならない」と繰り返し、論点をすり替えていた。慰安婦の存在は小野田寛郎氏が述べているし、泰郁彦氏の労作がある。昨日のパネリストでそれを否定する人士はいなかったはずだ。議論がなかなか前に進まず、パネリストの津田大介氏はTwitterでつぶやくのではなく”ぼやいて”いた。しかし海外に「性奴隷=日本」というイメージを拡散させた損失は計りし得ない。そしてrepairできない。
 長谷川氏が”「事実」と「主張」を切り分けているのかどうか”と問題提起しだしたあたりから、議論が回り出した。東京新聞の論説副主幹である長谷川氏。実際には事実と主張の区分けはストレート記事はともかく、特集になると難しいのは当然だ。記者はまずは主張より事実である。しかし事実より主張にプライオリテイを置けば運動家や思想家と変わらない。そのあたりはグレーゾーンとして新聞やテレビドキユメンタリーの世界では構造的に存在している。むしろ主張のために事実を巧妙にテクニカルに配置し、社会的にインパクトのある告発記事を書き、政府や体制を危機に陥れるくらいの腕力は「ワルだが仕事が出来る奴」などと内輪で持ち上げられてた空気があったのではないか。しかしその頃の読者や視聴者は違う。それを真実だと思ってしまう。「事実を伝えろ、うそは書くな」というものである。今回の番組の最後に寄せられた視聴者の意見で一番多かつたのものだ。

 昨日の番組で一番欠けていたのは読者や視聴者の立場だった。以前ドキユメンタリー番組の制作過程で映像と事実があらすじに沿うように取捨選択され、「不都合な事実」は落とされていくというレポートを読んだことがある。密室の中でデイレクターと編集担当、プロデユーサーが巧妙に映像とナレーシヨンの台詞を組み合わせていく。すべては密室の作業である。検事の取り調べが可視化される時代。こうした密室の番組制作方法が視聴者が望んでないものだということは自明だ。検察の調書同様に編集作業の痕跡まで視聴者にオープンにできるのかと筆者は思う。
 こうした問題が起きたとき、組織ジヤーナリズム、なかでも公共性の高い大マスコミの対応は往往にしてリスクをさける方向に向かう。社会の議論を呼び起こそうな記事や番組は二重三重のチエツクを受けるようになる。現場の記者やデイレクターは面倒になりそうな記事は人事のマイナスになると考え企画しなくなる。ある意味メデイアの自殺だ。
 自分の理念や目的のためにはある程度の非合法な、卑怯な手段は許される。そんな空気がマスメデイアに長くあったのではないか。ネツトの時代にあってそのやり方はSNSや巨大掲示板によって24時間指弾を受ける。過去記事に遡つてもだ。会社の役員に上り詰めた経営幹部の現役時代に書いた記事がネツトで批判されている、そういう状況がこれからは当たり前の時代になる。英雄譚として会社の伝説になった取材方法が今の世の中の常識に照らし合わせて真つ向否定され、部数を大幅に減らす。会見で頭を垂れる朝日の三人の幹部をみてそう思つた。

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