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夏のこどもたち 2015年8月19日 [随想]

 大坂・高槻市の中1女子の殺害・遺棄事件。残忍な手口に恐怖と心を痛めている人が多いと思う。日本社会の闇の暗い部分が覗けるようで、早期に犯人を逮捕して欲しい。一方で今回の報道で気になった点をいくつか指摘したい。中1の女の子が同級生と深夜、市街地を徘徊することに大人達が許容している社会の存在だ。彼女や男子中学生の生活態度についてテレビや新聞は保護者や学校を批判しなくなった。30年前の日本社会なら想像できないことだ。30年前も深夜に街を出歩くことは当然ではあるが危険があった。そうした時間帯と場所にこどもを置くことの危うさをを社会が自覚し、防ぐ共通意識がまだあった。一方でメディアには「こどものいのちを守れ」など美辞麗句があふれている。かたちばかりの生命尊重の風潮の中で進む社会の絆の破壊。

下山の覚悟 2015年5月22日 [随想]

人生先が見えてくるとひとそれぞれだなと思う。うまく行かない場合は特にそれが顕著だ。投げやりになる人、寡黙になる人、卑屈になる人。
 先日大学の同期会に参加した。かくいう筆者は自分ではいい人生だと思っているのだが、他から見れば社会的には出世もせず、社会の片隅で生きてきた人生といったものだろう。元来が怠け者であるし、運にも恵まれない人生だと思って生きてきた。同期会に参加したときの感情。社会的にも家族的にも恵まれた友人をみると、学生時代は同じ一線にいたのにどうしてこんなに差があいたのだろうか。正直悔しいと思う気持ちもあるが、それと相反する祝福の気持ちも湧いてくる。若い頃には決してなかった感情だ。人生それぞれ、そして先が見え、さらにそのゴール、すなわち死が射程に入ってきたからかなと思う。
 人生あきらかに下山の時期を迎えたと思う。山道を登りながら苦吟し、道に迷い、道を間違え、道から外れ、道から転げ落ちたことも多々あった。しかし与えられた人生で自分の登るべき山は登り切った。これ以上は登らないと決めた。下山の時を迎えたのだ。しかし不思議なものである。そう思った途端に第二の人生が見えてきた。そして下山の仕方は登山同様いろいろあると考えるようになった。これまで同様迷いながら間違いながら今度は山を下りていくだろうか。そして最後は病との闘いという第三の人生とその先にある死。下山の勇気、それを楽しむ気概。かつて学生時代にとある山に登り、そして下りた。下りる際に鳥の声がやけに楽しく聞こえ、下山に要した時間もあっけなく感じた。これからの人生もそうなのか?そうであってほしい。

百年後の自分 2015年2月4日 [随想]

 「百年後の自分」を想像したひとはいるだろうか?小学生以上の人間は間違いなく死んでいる。時代は22世紀。
それでも想像せよ言われた場合思い浮かべるのは故郷の墓である。自分では付けるはずものない戒名が刻まれている。昔と違って映像や写真は子孫には伝わっているかも知れない。だが死者に興味を持ってくれる子孫はいるのだろうか?筆者は心境が変わらぬ限り墓には入らないつもりである。もちろん葬式もなしである。ただ死体として処理され、灰を捨てられるだけでよい。死亡届で親戚や友人たちにも死んだことは知らせない。できるかぎり野性の鳥や獣のように死んでいく。高校時代に読んだ徒然草に死後年月が経てば誰もその人を知る人がいなくなるものだという一節があり、生きることのはかなさを知った。それ以来のことである。一方で普通のように生き普通のように家族葬で死んでいく。世の常識に従うだけでいい、そんな思いもある。そんな取捨選択の彼方の百年後。自分の命日の今の住処の天気は晴れだろうか曇りだろうか、雨だろうか。

「常識」と「現実」を混ぜるな 2013年8月19日 [随想]

 立川談志を考えるに二つのキーワードを抽出したい。「常識」と「現実」である。我々一般の陥りがちなのはこの二つが表裏一体不可分のものとして人生の全てに横たわり、それとうまく付き合えた者が人生の達人であり、成功者になると考えることだ。年を経るにつれ、経験が溜まるにつれ、そうした傾向に人は向かう。常識という縦の弦と現実という横の弦で組み合わさった篩いに人はかけられ、それを受け入れた人間は落ちていく。しかしそうした篩にかけられても決して落ちない人種が世の中にはいる。そうした人間は異端とされ、現実の世界からは疎んじられるときもある。だがこうした類の人間こそがある意味時代の魁なのであり、未来を開いていく者たちなのだ。
 談志の場合、「常識」には常に立ち向かう一方で「現実」には冷めた目で見て分析していたと筆者は考える。彼の中で「常識」と「現実」は明確にそして意識的に分離されていたに違いない。考えてみれば落語家として当たり前の立ち位置である。前項で記したように彼は「考え抜く力」があった。故にそれは落語家の肉体に言霊として宿り、精神として脳内に住み続けた。年を経ても創造力を保ち続けるにはこの「常識」と「現実」への意識が乖離した状態が無意識に一人の人間の中で存在し続けることが必要なのかもしれない。 今日はやや抽象的になってしまった。


タグ:立川談志

考える人 小林秀雄最後の日々 2013年4月17日 [随想]

考える人 2013年 05月号 [雑誌]

考える人 2013年 05月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/04/04
  • メディア: 雑誌
この3月は小林秀雄が死んで30年だった。あの時は教科書や試験問題でよく出てきた文芸評論家だったなとか、文学者の保守の総本山とか、文章は難しいけど座談は面白いな、といったものだった。訃報を聴いたその日は晴れてたような記憶がある。
「考える人」が河上徹太郎との座談を再掲し、さらにCDでも肉声で聞かせてくれている。文藝評論というジャンルを切り開いた二人。80を前に最後の対談であった。「歴史について」としているが話は最近の大河ドラマからヴァレリー、モォツァルト、太安万侶まで脈絡なく続くが、この二人にとっては「歴史について」とは関係なく、最近思ってること、そういえばこうだったよなと昔を確認したりといい意味でいい加減だ。タイトルは編集者があとでつけた程度のものである。なんとなく二人から伝わってくるのは互いに死を予期してるなということ。事実この対談から3年を経ずして二人は冥界に行ってしまっている。西欧の眼で日本を見つめ、日本の眼で西欧を見つめる。それは文学のみならず哲学や美術、音楽に及ぶ。敗戦にへこたれることなく日本を見つめてきた、そうした自負が伝わってくる。今の若い世代は小林秀雄をどうみるのだろうか。
 

父と子 三國連太郎と佐藤浩市 2013年4月16日 [随想]

 三國連太郎の訃報。息子佐藤浩市の記者会見。以前筆者は市川猿翁と中車の親子の相克とそれをつなぐ芸について考えを述べた。そのもうひとつの形が三国親子にもある。戦前から戦後にかけて破天荒な人生を経て三国は役者となる。その怪優ぶりはエピソードに事欠かない。一方で家庭であっては四度結婚し、佐藤は二番目の妻との子である。太地喜和子との関係もよく知られている。佐藤は昨日の記者会見で三国との親子の会話はなかったと話し、役者として三國連太郎として人生を貫いたと父親を語った。父と子としての会話がなかったというのはおそらく言い過ぎだとは思うが基本的スタンスはそうだったのだろう。その相克をそのまま映画にしたのが「美味しんぼ」であり、役柄を演じたのが海原雄山と山岡士郎である。だがその役を演じながら二人は「役者」こそが自分たちをつなげるただひとつのコミュニケーションだと気づいたに違いない。親子の溝を役者という彼らが求めた道が少しづつ埋めていった。ここのところは市川猿翁 と市川中車との関係にも似ている。ただ佐藤浩市と市川中車こと香川照之との違いは香川が積極的に親子の溝を埋めていったことである。猿翁は自ら動かなかった。三國連太郎は当時には珍しい181センチの長身。佐藤も182センチ。50歳を過ぎた佐藤は最近富に父親の風貌に似てきた。佐藤自信も離婚を経験しており、前妻との間に設けた子はかつての佐藤がそうであったような思いを受けているかもしれないし、佐藤も三国の立場を経験したことになる・その辺りから佐藤は変わったのではないか。だからこそ「美味しんぼ」のキャストを受け入れたのだろう。三国と佐藤は以前受けたインタビューで三国は息子に見つめられると視線を外すと語り、佐藤は父は見つめると視線を転がすと語った。佐藤は前妻の子どもからどのように見つめられたのだろうか。役者は直観に支配される仕事であり、役になるとは想像を働かせる職業である。役者佐藤は前妻の子から見つめられることにより、かつての自分をそこに見、かつての父親を自分に見た。佐藤はその瞬間、自分とそして父親をアウフヘーベンした。佐藤の人間性に深い皺が刻まれた。憎み、そして父を自分の中に佐藤浩市。父親なきこれからを役者としてどう生きていくのか。父親の年齢になるまで38年ある。

 


日本人は腹を出せ [随想]

 腹を出せとはどういう意味かと思われるかもしれないが、これは腹を露出せよとの意味ではない。腹を突き出せということ。メタボが気になって窮屈なパンツを履いていないか?そのため腹ではなく胸で余裕のない呼吸してないか。ダイエットのストレスに、そして時間に追われる日常にあってゼエゼエ言ってないか。短い呼吸でじっくり考えることもなく過ごしてないか。腹回りに余裕のあるパンツを履き、腹式呼吸せよ。ベルトで腹を締め上げるな、和服の時代は常に帯は腹囲にフィットした締め方をしてた。そして本当の勝負の時は褌を締め上げた。
汲汲せずにゆっくりとたえまなく進もう。

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