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テレビの衰退 2017年5月22日 [テレビ番組]

 最近殆どテレビを見なくなった自分がある。視るテレビは決まっていてすべて録画視聴。LIVEでみるのはニュースとスポーツだけだ。つけているテレビを消すときほっとする自分がある。情報過多に感じているのかも知れない。
 そのテレビだが、CMを見ていると高齢者向けのCMが20年前、30年前に比べると異様に多い。若い世代がテレビ離れしているという証拠だろう。団塊の世代が高齢者である時期はあと20年。テレビに集まる広告の量は確実に減少しているだろう。マスコミは広告料、購読料によって成り立っていた。その資金源が減少したとき、吾々の社会どうなるのだろうか?

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テレビの若者離れ 2015年12月10日 [テレビ番組]

 若者のテレビ離れが言われて等しい。10代20代の若者はスマホでネットにアクセスしている。アクセスする時間が若い世代20代まではテレビ視聴の時間よりも多いのではないか。最も「ながら視聴」もあるので彼等は二社選択しているわけではないが。しかしこうした状況はテレビ局が招いたともいえる。ある理由を以て。すなわち視聴率である。しかも世帯視聴率(HUT)をいう。視聴率を人口構成でみるとどうだろうか?ビデオリサーチ社がどのような調査方法をとっているかはしらないが、人口構成は団塊の世代がバスト、そしてヒップが団塊ジュニア世代である。団塊世代が60代後半、団塊ジュニアが40代に突入している。世帯視聴率を狙うならこの世代に訴求したものを、というのが順目の考え方である。10代、20代へのプライオリティはこの世代に比べ低くなる。そしてこの人口構成は経年とともに変化する。10年後団塊世代は70代後半、団塊ジニアは50代となる。テレビがこの人口構成に合わせた番組を作り続けていけば、テレビが依って立っている広告システムに深刻な影響を及ぼす。NHKも税金を払う社会的中核を担う世代向けが薄くなれば公共放送としてどうなのか?若者のテレビ離れではなくテレビの若者離れが若者のテレビ離れを加速させているのである。 


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岡村隆史の旅 2015年10月27日 [テレビ番組]

 NHKの番組「プロフェッショナル・仕事の流儀」に岡村隆史が出演。構成は彼が会いたい三人のプロフェッショナルに会うというもの。これまで放送された250人のプロフェッショナルで岡村が選んだ三人は岐阜の左官職人、青森のりんご農家、そして歌舞伎の坂東玉三郎だった。
 まず岡村がお笑い芸人である以前に彼のキャスティングはこの番組自体に可能性を与えるものであった。番組が編集されたあとに付けられるナレーションよりも優れて彼のモノローグ、そして相手へのインタビューが実に生き生きとし、視聴者に感興を与えていた。こうしたリアクターが構成の軸となるドキュメンタリーの可能性を感じさせた。今回出演した三人のうち二人は一般人である。その後の取材慣れもあって二人は能弁。が、それを差し引いても岡村の話の引き出し方は卓越していた。お笑いの世界で場の空気を読みぬいて来た賜だと思う。プロフェッショナルという番組は視聴者によってインパクトのポイントが違う。自分の場合は左官職人の精神の保ち方に共感した。これは岡村も同じだったのでは。岡村の可能性とリアクター・ドキュメンタリー(とでも呼ぶ?)の可能性を両方を感じた番組だった。


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「相棒」新シリーズスタート 2015年10月19日 [テレビ番組]

 「相棒」の新シリーズがスタートした。杉下右京(水谷豊)の今度の新しい相棒は冠城亘(反町隆史)。設定は法務省官僚で警視庁に出向してきたというもの。第一回は二時間スペシャルだった。前回までの相棒甲斐亨(成宮寛貴)の存在は忘れられたかのように、その父親甲斐峯秋(石坂浩二)が元警察庁次長の役で登場する。甲斐亨は殺人罪で収監中のはずだがそういう設定は捨象されている。前シリーズ最終回が極めて特異で後続シリーズのことを考慮しなかったプロデューサーのミスと脚本家の衒学だろうがシリーズ全体のストーリーに瑕疵を与えた感は否めない。それはさておき今回も犯罪者の心理・葛藤に筆をさく手法はそのままで、他の刑事物と一線を画した手法は脚本に深みを与えている。つまり脚本が冴えてくるのだ。するとどうだろう、出演者の演技も映えてくるのだ。演技が単調だと指摘されてきた反町隆史が予想に反して評判がいい。それは出向してきた法務官僚として時には杉下の捜査を刑務所側や警察庁に内通する演出が役柄に二面性と現実味を与え、結果深みのある演技(にみえる)となるからだろう。脚本がいいと役者がうまくみえるのは定説通り。美女とのデートシーンはご愛敬である。ストーリー自体も荒唐無稽の部分もあるのだが考えさせてくれるテーマが前面に提出されているので違和感はない。
 順調なスタートだろう。反町もいい役柄を貰ったといえる。
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蘇った?タモリ 2014年11月6日 [テレビ番組]

 ヨルタモリ(フジ)を見ている。タモリと宮沢りえが毎週ゲストを呼んで話を聞いたり、コントが挿入されたりするバラエティなのだが、これが面白い。作り自体は80年代のテイストで新しさはない。だが間にはさまれてやるタモリのひとり芸がいいのだ。35年以上前のタモリをみるようなのである。69歳。まあ昔のようにやるのは無理なのかも知れない。しかしそれでよい。いやそれがいいのだ。筆者は「笑っていいとも」が続いたおかげでタモリは自分の芸を封印してしまったと思う。まあ芸とはタモリは思ってないかも知れない。「笑っていいとも」が終わったお蔭でかつてのタモリが戻ってきた。30年もののウィスキーが封を開けられて飲める。そんな感じなのである。

 


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ロストタモリ 2014年4月10日 [テレビ番組]

 「笑っていいとも!」が終了して10日。終了が報じられた10月以来タモリについて数々の言説がなされてきた。終わると決まってからの”タモリ賛辞”には辟易し、飽きたご仁も多かろう。筆者は70年代のタモリの深夜放送をよく聴き、80年代前半の彼の出演したテレビはよく見た。40年間の彼の芸能史、そして芸能界に入るまでを纏めた著書『タモリ伝』を読んだ。世に出た当時のタモリを思い出した。タモリは変わったとされる。タモリ自身も「昔は江頭2:50のような存在だった」という。確かに深夜放送でさだまさしを批判していた頃のタモリと最近の笑っていいとも!での聞き役に回るタモリは隔世の観がある。しかし赤塚不二夫の葬儀での弔事を読むタモリはかつてのタモリである。かつての毒々しさは何時の間にか消えたかのように見えるが実は反って深みを増している。しかしそれはタモリ個人の世界でしか見えない。最終回のオーラスで「明日もまた見てくれるかな!?」と叫んだときのタモリはかつてのタモリを彷彿させた。

での 


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32年間視聴者をを笑っていた男~「笑っていいとも!」の終了~ 2013年10月24日 [テレビ番組]

 「わらっていいとも!」が32年の放送を終える!!のニュースが流れた。番組の中でもと入り挙げられ、タモリは冷静に対処していた。タモリは好きなタレントである 。タレントとと言っては失礼かな。オールナイトニッポンはほぼ聴いていた。唯一違うなと思うのは「思想のない音楽」でのさだまさし批判なのだが。それも後に揶揄されるからと思って心配していた。かつての毒のあるキャラクターが無毒なキャラクターに変容した。しかしこれはタモリ氏のあくまでの偽装である。赤塚不二夫の葬式の時の告別の辞。彼は何も書いてない白紙の弔事を読み上げた。その時カメラがその白紙をとらえたからこそ、それがわかったのであって、実はこの32年間ずっとタモリは偽装しながら世間の自分への勘違いぶりを独りギャグにして笑っているのでは思う。実はヘンリー・ダーガーのように誰も理解してくれて無くても自分だけが面白ければいいと。「お前等を俺が笑っていいとも!」だとしたら。。。。何とも畏怖すべき男である。来年8月には69歳になる。 


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高視聴率番組に男の影あり 2013年10月7日 [テレビ番組]

 筆者はかねてよりテレビの男離れについて述べてきた。視聴率を狙うあまり、チャンネル権を握っていると言われる女性向けの番組が増え、男はテレビをみなくなりつつあると。一方で在宅率の長くなった団塊世代の男は逆にテレビを視るようになったが、彼らのみたい番組がないとも。「相棒」で高視聴率をたたき出し、結果は視聴率1位を獲得したテレ朝、80年代、90年代の残滓から逃れることが出来ないフジテレビは4位という数字に現れている。足し算の法則というのがある。固定視聴者層に新たな視聴者層を加えることに寄って視聴率がアップするというものだ。例えば歴史番組といえば男がみる番組だったが、「歴女」と呼ばれる女性層を演出的に獲得することによって視聴率が増えるというものだ。これはやり過ぎると固定視聴者層が離れる副作用もある。その例が大河ドラマだ。
 さてここまで書いて冒頭タイトルの「高視聴率番組」が何をさしているか、大体検討がつくだろう。「あまちゃん」と「半澤直樹」だ。しっかりとした男性視聴者層を獲得した、ゆえに視聴率がアップし、社会現象にまでなったのだ。あまちゃんの視聴率は思うほど高くないというが、違う。BSの朝の7時30分から一日4回再放送し、週末はまとめて放送している。これを足せば相当の視聴率だし、中には再放送もみてる人もいる。これからは女性層をベースにした男性上乗せ発想のビジネスやコンテンツが成功する。女性向けで男が寄り付きたくない場所で苦戦しているビジネス担当者にいいたい。「男性は買いだ」と。
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歌詞への過剰な緻密さ~「あまちゃん」シナリオ~ 2013年10月4日 [テレビ番組]

 「あまちゃん」台本で舌を巻いたのは脚本の中での歌曲だった。潮騒のメモリー然り、「地元へ帰ろう」然り。例えば週刊文春で町山智宏が指摘しているように「早生まれのマーメード」は2月4日生まれの「渚のはいから人魚」を歌っていた小泉今日子で、「友達少ないマーメイド」は東京に居た頃いじめられっ子だったアキ、「三途の川のマーメイド」はアイドルになり損ねた若春子(番組では天野春子の若い時代の生き霊)。最後は三途の川を書き換えることで成仏する。と言った具合で見事に歌詞と芝居と現実がつながっている。歌詞は脚本家ではないプロ作詞家にまかせるのが普通かもしれない。だが、そこも含めて宮藤官九郎にやらせたからこそ、驚くような演出となるわけである。最も終盤で忠兵衛が遠洋漁業の船の旅に出、それを夏ばっぱが港を探すシーンはやりすぎかなと思ったが。まあ宮藤官九郎のネタばらしということかもしれない。脚本のパワーの3割を歌詞にあて、常にその歌詞を芝居に取り入れる方法は誰かが先にやったのかもしれないが、連ドラでは初めてかもしれない(実は連ドラは生まれてこの方殆ど見てなかった)他とは違う過剰さがあると独創が生まれる。そういうことなのだろうか。
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あまちゃんの秘密 2013年10月1日 [テレビ番組]

 お陰様で筆者は「あまロス」(「あまちゃん」が終わって気抜けしたような状態になること)にはなっていない。人気は放送が終わっても少なくとも紅白まで続くだろう。ブルーレイディスクはAmazonへの納品が間に合わず2週間以上の遅配となっているそうだ。さて小欄でも珍しくテレビ番組について言及している(「家政婦のミタ」以来)。それはこのヒットが今の日本社会に何かしらかを象徴していると考えるからだ。震災復興はもちろんだが、東京と地方の問題を浮き彫りにしていることは当たり前だが指摘しておいてよいだろう。さてこれもよく指摘されていることだが、宮藤官九郎の脚本だ。筆者が瞠目するのは主演から端役に至るまで目を配って書き切っていることだ。それぞれの役柄にそれぞれのセリフを与えている。おざなりの役とセリフはない。ここが役者の信頼を得たポイントだと思う。ということはプロデューサーやディレクターまかせでない宮藤官九郎のキャスティングのこだわりがあったと思う。歌にしてもセットにしても雑ではないのだ。スタッフが宮藤官九郎を中心にうまくまとまったのだろうか。ある意味いろんな奇跡がこの番組に起きたと思いたい。世の中そんなにうまくいくとは限らない。だからこそ珍しいし、よかったなと思うのだ。
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「あまちゃん」のもたらした意味 2013年9月29日 [テレビ番組]

 「あまちゃん」が終了した。社会ブームにもなったテレビドラマ。BSで朝と夜、地上波で朝と昼放送している数字を足せば実質視聴率は「半沢直樹」を上回るだろう。筆者の周囲には朝と昼2回見ているフリークもいる。「あまちゃんブーム」は一体何を示しているのだろうか。一つ言えることはテレビの力がまだ健在ということだ。逆に言えば制作の力が落ちているということ。超一流の大学を出て最高給のテレビ局に入社し、失敗しないことで評価される出世競争の結果が最近のテレビ局の凋落なのかもしれない。もうひとつは80年代〜90年代のヒットの仕方がまったく通用しない時代になったということ。若者がお金を使わない時代、そしてテレビをみない時代。団塊世代が社会の第一線をはずれ、家でテレビを見て時間を過ごす時代。そんな時代に支持されるテレビ番組。そこを深掘りしていかないとだめなのである。「あまちゃん」の成功にキーがあるはずだ。


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フジテレビの凋落 2013年9月22日 [テレビ番組]

 フジテレビの凋落が指摘されている。視聴率ではテレ朝、日テレ、TBSの後塵を拝する4位。80年代〜90年代の全盛を知っている我々にとっては首をかしげるばかりである。亀山、大多といったかつてのヒットプロデューサーが陣頭に立って挽回しようとしているのだが結果が数字に出ていない。いったいどうしてしまったのだろうか。以下理由を考えたい。
 ①人口構成を見誤っている。この20年、少子高齢化が進み、他局は視聴者層を高齢化シフトしてきたがフジの対応は不完全である。
 ②所得の少ない、将来希望のない、若者をつかみきれていない。若者戦略のありかたが80年代から変わっていない
 ③古い成功体験を持つトップと「優秀」で失敗を嫌い、テッパン狙いの部下。この組織構造が新しい番組と視聴者獲得を妨げている。
 ④番組以外の収入があるだけに視聴率獲得のモチベーションが落ちている。

 これ以外にもいろいろ理由があるだろう。要は大企業病である。日本一の高給に成績優秀な人材が蝟集した結果ともいえる。こうした企業が陥りがちな宿痾はなかなか直せない。実績のある人材を中途採用し、もしくは経営幹部に据える。トップの成功体験は尊重するが墨守する必要はない旨、会社全体に周知する。そういうところから始めるべきだろう。 

 

 


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あまちゃんの最終章 2013年9月18日 [テレビ番組]

 『あまちゃん』が9月いっぱいで終わる。ストーリー的にはお座敷列車の復活とこれまでの出演者のほとんど(東京編も含め)が北三陸に集まり、久慈の一般市民、含め袖ヶ浜駅のプラットホームに鉄道沿線にプラカードを掲げた地元の復活を祝う人々で埋まる、といった大団円を想像してみる。このドラマは登場人物が失っていたもの、手にできないとあきらめていたものをアキがトリックスター的役割を演じる中で手にしてしまう作りになっている。音痴の鈴鹿がコンサートを開き、それをカメラを回しているストーブさんが目に浮かぶ。ストーブさんがアキの愛を得るのは難しいかもしれない。ここのところが宮藤官九郎の腕の見せ所だろう。事実裏設定的にストーブさんの自己実現で大団円というのが宮藤のこの物語の情緒的ゴールなのではと思う。とはいうものの震災以降の台本はシチュエーションを説明するのに労力を使い、アキの心情が今いち描かれてないのは残念だ。ナレーションをいいろんな配慮から小泉今日子に代えたのがその理由なのだが、演出論として正しかったかどうか。 


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「あまちゃん」〜天野春子の成長物語〜2013年8月30日  [テレビ番組]

 「あまちゃん」は映画「潮騒のメモリー」の撮影が終了し、筆者の予想した北三陸でのロケの映画撮影シーンはなかった。だが、いずれにせよ最後は久慈での一大ロケシーーンがあるはずである。
 さてこのドラマ、脚本家の視点で構造を分析してみると主人公は天野アキではなく天野春子であり、彼女の成長物語と考えてもいいのではないか。彼女には3つのトラウマ及び、克服できないことがあった。①アイドルを目指して上京したが夢がかなわなかった②母(天野夏)との関係がうまく行っていない③母親として未熟 だが娘アキと故郷北三陸に帰ってきて状況は変わる。娘が「私、あまさんになる」と言い出し、やがて自分が挫折したアイドルの道を歩むようになり、自分はその事務所の社長となる。その中で母と和解し、娘を否定するような母親から、その成長を見守る母となっていく。そしてもちろんその娘がアイドル、そして女優の道を歩み始める。天野春子は北三陸に戻ってから自分に欠けていたもの、失ったものを手に入れるのだ。天野アキはそのためのトリックスター。こう考えればこのドラマはより理解しやすくなるbのではと思う。
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『あまちゃん』と東日本大震災 2013年8月23日 [テレビ番組]

 『あまちゃん』が佳境に入った。今日は主人公天野アキが尊敬するスター鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)の応援もあって、かつてクビにされた事務所の社長太巻がメガホンをとる、映画の『潮騒のメモリー』の主役を獲得するシーンが放送された。9月末の最終回に向けてドラマがどう描かれていくか。週刊誌などは特集を出すに違いない。かねてより視聴者の中で関心を呼んでいることがある。それはこの番組が東日本大震災をどう描くかということ。 元々北三陸市は架空の街であり、実際は久慈市と田野畑村が相当する舞台だ。youtubeで紹介されているようにこの地域の震災の被害は甚大。人も家も海に流されている。震災の記憶が今も人々の心に生々しくあるこの時、フィクションで取り扱うのはどうなのかという議論は制作、そして地元でもあっただろう。youtubeの映像でみる瓦礫の山をみるにつけ辛くなる人は多い。だが脚本の宮藤官九郎が言うように震災を取りあげるも取りあげないのもリアルではない、噓なのである。幸運にも番組は大成功し、能年玲奈は国民的スターとなり、この夏久慈市には大勢の観光客が訪れた。地元の人々は元気をもらい、制作はほっと胸をなで下ろした。
 下世話ではあるが筆者も東日本大震災をドラマはどう描くのか想像してみた。新「潮騒のメモリー」のロケ地はおそらく袖ヶ浜になるだろう。太巻きもアキの母、春子の生まれた場所で娘を主人公にした映画をとることでかつての「吹き替え」の贖罪を果たす。アキの恋人種市も撮影の手伝いでふる里に帰る。父親は車両を手伝い、水口は勉さんと再会を果たす。撮影は北三陸市の協力ものと順調に行われるがクランクアップ直前に3月11日を迎えてしまう。復興に明け暮れて撮影どころではなくなるが、それでも映画を完成したいという地元の人々(実際は久慈市の人々)が総出で最終シーンを撮影する。空撮には久慈市の数万人の人々が映し出されて大団円となる。あくまで素人の予想であるがどうだろうか。今日は8月23日である。最終回まで40日もない。


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談志の「考え抜く力」 2013年8月19日 [テレビ番組]

BSで立川談志のドキュメンタリードラマの番組を視た。前後編で構成されていて、その両方を小池英介、中山秀征が演じていた。番組の出来はともかく、筆者は談志の生き方、そして彼の吐く言葉に電気で打たれたような気分になった。カリスマ性、教祖性。常識を端から否定し、生き方も”立川談志”を貫いた。「人生成り行き」とは落語かとしての彷徨を続けた結果彼が得た境涯だが、24時間、寝るときも立川談志を演じ、落語を、笑いを考え抜いた結果であり、その意味でこそ談志の中では全く矛盾しない。考え抜く力こそが創造の源。情報の海に囲まれ、マルチタスクな仕事に明け暮れていては決して達し得ない人生と世界。本名松岡克由。常識の世界から外れたものが集まる落語界で、その中でも常識から距離を置き、異端を貫いた立川談志。髪の毛一本、死ぬまで立川談志であり本名の松岡克由は見事に捨てていたのではないか。


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テレビがつまらないということ平成25年2月5日(火) [テレビ番組]

 先週NHKがテレビ六十年と言うことで様々な番組を放映していた。その中で糸井重里氏が司会の番組があった。番組を通してのテーマは筆者には「なぜテレビがつまらなくなったのか」のように思えた。アンケートでも、そしてゲストの日本テレビの元プロデューサーや有名脚本家にその理由を問うていた。しかし筆者は思う。「テレビ以外に面白いメディアがあるから」テレビの魅力が相殺されてしまったのではないだろうか。いうまでもなくインターネットである。
 テレビが登場したとき、映画はある場所にある時間に居なければならないのに対し、テレビはある時間に家にいさえすれば楽しめるという利点があった。今テレビはある時間にテレビのある場所にいなければ楽しめないという弱点をネットに対して持つ。ネットはいつ、どこでも手元に端末がありさえすれば自分の興味に忠実に楽しめる。
 テレビがつまらなくなったというが、昔からつまらないテレビは存在した。ほかに楽しめるコンテンツがたくさんあるからテレビをみなくなったと言うべきなのだ。テレビが映画と同じ立ち位置にたたされているとでもいおうか。

 


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テレビの男離れと若者離れ2012/04/02 [テレビ番組]

 今日からテレビは新年度に入った。ラテ欄を見ると見たい番組がまた一段と少なくなったような気がする。NHKを含めてほとんどの放送局が「女性を意識」「女性客を狙う」新番組を始めている。そして筆者のような男の視聴者はさらにテレビをみなくなり、ネットかテレビでもCSにチャンネルを合わせることになる。女性をターゲットにすれば視聴率があがる。そんな神話でもこの世界にはあるのだろうか。既存の固定客にさらに上乗せするために新たな客層を開拓するというのならわかる。しかし新たな客層に軸をシフトしてしまうと、これまでの固定客を失うリスクがあることをご存じないのだろうか。例えば大河ドラマはここ数年女性客を意識した作りになっている。「江」で男性客が大河に見切りをつけた。「平清盛」の低視聴率をみると、男性向けになっても客は戻ってこなくなったということあろう。テレビからネットでニコ動やYoutubeを見る、そうした流れに拍車をかけているのが「女性客狙い」だとしたらテレビ業界の完全な戦略ミスといえる。ファミリー向けの車ばかり作って、若者が乗りたい車をおざなりにして「若者の車離れ」を招いた自動車産業と同じ失敗をしているように思える。

 筆者は朝、NHKラジオをネットで聴いて出社する。今日月曜日8時からの番組は女性向けの番組に変わっていた。明日より8時以降はラジオを聴くのをやめにすることにした。


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TBS「運命の人」低視聴率の理由 [テレビ番組]

 鳴り物入りのドラマ「運命の人」が視聴率的に不振だという。2月最終週は1桁に落ち込んだ。ネットではなぜ低視聴率なのか議論がなされている。それによると人気と実力を兼ね備えたとされるプロデューサーが製作に携わっており、恐らくドラマ的な作りとしては水準の高い作品なのだろう。演じ手も一流である。筆者もこの番組は毎回見ているがそう思う。(個人的には40年代の室内の装飾や家電製品、車のリアリティを楽しんでるのが視聴の理由なのだが。)だが毎回感じることがある。一言で言うと時代感覚が今と違いすぎるということだ。例えば主人公の弓成亮太。彼が法廷でそして職場で、家庭で妻にテープレコーダー(古い言い方で恐縮だが)を回したように繰り返しいうのが「知る権利」だ。このドラマのモデルとなったのが西山事件であるのはいうまでもない。法廷で国と新聞社で「知る権利」が争われたという歴史も承知している。当時の新聞社の編集局をリアルに再現されたという煙草の煙の充満している職場。そこで新聞記者たちが「知る権利を奪うな」と強弁するその姿とそれが常識だった時代が、今と明らかに違い、興趣が剃れるのだ。Youtubeで海自のVTRが世界に流れ、個人がSNSでつぶやく時代。そこには一市民と国会議員の区別はない。さらにはマスメディアが取材され、その手法が一個人によって批判される時代。知ると発信が「相対化された時代」この感覚からすると「知る権利」を盾に自分の主張を曲げない主人公には感情移入するどころか滑稽さと哀しみを感じてしまう。(このドラマの誰に共感し、志向の軸足をもとめるのかが定まらないという構成自体の問題はふれない)逆に国民の知る権利を守れというが国民を代表している意識の傲慢さ。それが今の時代から照射されてしまうのである。
 新聞記者が政治家の家に入り込み、着替えまで立ち会うシーンが番組では紹介されている。この演出の背景にあるのは「番記者」と呼ばれる政治家に密着した記者の生態である。戦後にできたものと思う。これをみさせられると「知る権利と癒着を新聞記者は自己目的のために使い分けている」そんな思いに落ちたりもするのだ。
 
 
巨額の制作費を投資しながら低予算の「家政婦のミタ」にトリプルスコアで惨敗した「南極物語」。この惨敗の理由と「運命の人」の不振には共通するものがあるように思える。時代認識のずれだ。それともうひとつ制作者側の「失敗したくない」という姿勢。社内では決定力のある50代、60代の意見、視聴者的にはテレビをみない若者は捨て、60代、70代の高齢者をターゲットにした番組作り。これが結局裏目に出ている。優等生のおかしがちな失敗。いかにもTBSらしいとも思うのだがみなさんはどう思うのであろうか。


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報道ステーションSUNDAYのセットはどうみても夜のセット [テレビ番組]

 報道ステーションSUNDAYがスタートして2回目が放送された。前回はこの番組がサンデーフロンティア同様、コストカットばかりに目が行き、肝心の番組内容がおろそかではないかと指摘した。しかし今の時代コストカットは趨勢。百歩譲って同情すべきところもある。しかしどうしても違和感を覚えるのが番組のセットだ。このセットどうみても夜のセットなのである。月~金の報道ステーションの使い回しだから仕方がないといえばそうなのだが、番組のエネルギーがどうもそがれる印象を持つ。普通は時間帯や曜日、そして視聴者層を想定して美術セットはデザインされると思う。土曜日の朝の関西キー局のスタジオセットが花だらけになるのは理由があるわけだ。TBSの時事放談の美術セットは白洲正子の武相荘の朝を想起させるし、窓から見える背景は京都の朝の嵐山からみえる山々の風景にも思える。

 そんな中での報道ステーションSUNDAYのセット。目くじらたててもしょうがないかという声もあろう。つまるところテレビ局に金が集まらなくなった結果の具象というべきなのかもしれない。図体だけでかくて稼ぎが少ない企業の歩む道とでもいうべきか。 


大河ドラマの変遷にみるターゲットの変容 [テレビ番組]

 時代劇チェンネルがCSで健闘しているという。民放がほぼ時代劇を制作をやめてしまったこともあるが、中高年齢層、特に男性を中心に時代劇は厚く支持を受けているという。筆者もその一人でNHKの30年前の時代劇などを楽しんでいる。

 今年のNHK大河ドラマは「江」。織田信長の姪であり、淀君の妹でもあり、二代将軍秀忠の正室の主人公の戦国から江戸創生の時代を描くものだ。サブタイトルが「姫たちの戦国」。女性から見た戦国時代を制作者は表現しようというものらしいが、どうも事実を歪曲しているというか、ありえないエピソードを重ねている嫌いがある。このことは各種メディアで言い尽くされているのでここでやめるが、なぜこうなるかは自明である。視聴者層を女性、しかも40代にしぼって番組製作を行っているからだ。かつては朝ドラは女性、大河は男性がメインターゲットとしてNHKのドラマは作られていたように思う。それがいつの頃からか大河も女性をターゲットの中心に置きだした。主人公にジャニーズ系やイケメン男優を持ってくる傾向は新しくはない。しかし女性ターゲットの傾向が顕著になったのはやはり「篤姫」だろう。視聴率的にも成功を治め、演出も堅実なものを感じた。製作はその前回の「風林火山」で男性向け大河の限界を感じたのかも知れない。

 しかし今回の「江」である。役者の演技も理由があると思うのだが、時代劇を現代的理解で安易に番組を作っているようにしか見えない。これは以前にも指摘した。視聴率的にも成功しているとは聞いていない。「天と地と」の川中島の合戦での石坂謙信と高橋信玄の霧の中での死闘のように台詞のないカメラワークだけの演出も幼心の小生には40年以上経った今も心に刻み付く感動があった。それなのに「江」。マーケティングの毒におかされてはいないか?本当の演出と向き合っているのか?

 かつての大河を連続放映しているCSに人気が集まるのは今の大河に飽き足らない男が相当いるということかもしれない。 


報道ステーションSUNDAY [テレビ番組]

テレ朝のサンデーフロントラインが9月で終了し代わって報道ステーションSUNDAYがスタートした。筆者は2010年4月にサンデーフロントラインが単に制作費節減の番組改編の結果できた番組と批判した。予想通り2年と持たなかった番組となったが今度の改編はどうなのだろうか。報道ステーションSUNDAY(略して「報ステS」は長野智子をメインMCに、そして男女2人のテレ朝局アナがサブで支える構造になっている。報道ステーションの日曜日版とあってセットはウィークリーのものをそのまま使用。タイトルもタイトルMもarrangeを変えた程度の二次利用である。セットとタイトルを安くあげたなというのか率直な感想。しかし実は二次利用はこれだけではないのだ。 番組の目玉の特集である富川アナのリポート(多摩ニュータウン)までもが報道ステーションの二次利用なのだ。サンデーフロントラインも経費節減を主眼に置いた改編。筆者はこれでは長続きしないと批判したがこの番組も同じ判断を下さざるを得ない。


もうテレビは40代女性向けのメディアと思った方がよい [テレビ番組]

 テレビの若者離れ、そして最近では高齢者離れが進んでいるという。若者はネットでSNSとニコ動みるのがメディアアクセスの基本であり、高齢者は「見たい番組がない」とぼやく。テレビ欄をみればわかるようにメインターゲットは女性、しかも40代というのがはっきりしている。不倫やイケメン食い、グルメにダイエット。小生にはどうでもいいようなテーマをこれでもかこれでもかと番組編成。ふと気がつくとニュースとスポーツ中継しかみなくなった中高年、そして若い十代二十代の男性が多くなってはいないだろうか。

 知り合いのネット業者に教えて貰ったのだが高齢者を除けば、40代女性は最後のガラパゴス携帯死守世代なんだとか。他の世代はどんどんスマフォに進むのだがこの世代はガラケーにこだわる。だからキャリアのガラケー担当者は40代女性向けのコンテンツをガラケーに集中させようとしてるとか。

 なんだかテレビと似てないか。40代女性に向けたテレビ番組が増えれば、PCやタブレット端末、スマフォが苦手な層をがっつり掴むことができて視聴率はそこそこいくだろう。しかしすべての局がこの鉄板で属性読みのようなやり方を遣り出したら、テレビはもうメディアの中心ではいられなくなってるだろう。すでに具象化している、それは。


時間ですよ~40年前のホームドラマから見えてくるもの~ [テレビ番組]

 TBSがCSで昭和45年に放送されていた「時間ですよ」を流している。このドラマは銭湯を舞台にしたホームドラマ。演出家久世光彦の出世作としても知られる。当時はエロ・グロ・ナンセンスという言葉が流行した。この時代を象徴する言い方で高度経済成長という言葉もあるが、1970年こそがその言葉がはまる年。万博が大阪で開催された年でもある。
子どもは親の目を気にしながらどきどきしながら茶の間でみた。当初、演出の名でクレジットされているのは伊藤勇だが久世の演出になってナンセンスとテンポ、そして人間の描き方が一変した。演出に久世の名がクレジットされて2回目の回は船越英二演じる松の湯の主人祥造が家出する。夫婦の気持ちのあやをうまく演出していた。
「時間ですよ」を見て感じるのは人と人との距離が今の時代と比べてはるかに近いということ。ドラマでそう描いてるからその時代の現実もそうだとはいわない。しかし今から見ると、私のように少し孤独癖のある者にとっては息苦しく感じるくらい、みんなくっつきあって生活してるのだ。みんなが「ちゃん」づけで呼び合い、一挙一投足にいたるまで口をはさみあう。個人的思いはともかくとして集団の中で仲間意識が,無意識のうちに当然のものとして理解されている。このドラマに出てくる若者は団塊の世代であるが、その仲間意識には幼稚さや甘さも感じられる。それ以上世代の描き方は長屋の寄合所帯の中で懸命に生きる人たちのものだ。
震災を受けて行われる春の甲子園。宣誓を行った球児の言葉に「仲間に支えられる」というものがあった。「時間ですよ」で描かれているのは、そこにいれば仲間として受け入れられ、また振る舞わなければならない当時の社会の空気だ。高校球児の宣誓をあの松の湯おかみ、松野まつが聞けば「あらこの子、何当たり前のことをしょった言い方するのかしら」なんていうかもしれない。昭和45年はそんな時代だった。一方で「世知辛い世の中」という言い方もこの時代あったような気もする。当時ですらドライな人間関係が世に広がりつつあると感じていた。
40年は時代精神の移ろいをいやがおうにも感じさせる。昭和45年の40年前は昭和5年だ。昭和5年の社会とはどんな空気だったのだろうか。それを知る人たちは今いない。



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